境内

時の流れが
 そっと語りだす

悠久の時を見守る寺院。
歴史の深さと美を感じ
境内を巡る。

勅使門

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高い石段の上に西に面して立つ曼殊院の正門。皇族の関係者のみが通行を許される。

庫裡

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重要文化財。江戸時代。
庫裡は寺院の台所のことで、北向きに建つ唐破風(からはふ)の入口には、第29代門主の良尚(りょうしょう)法親王筆による「媚竈 (びそう)」の額が掲げられている。
媚竈(竈に媚びる)とは『論語』を出典とし、権力ある上の者に媚びるのではなく、竈や竈で働く人々に感謝せよとの言葉。
現在は通用口になっている。

大玄関

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重要文化財。江戸時代。
前に車寄(くるまよせ)、式台(しきだい、上り口)をもち屋根には軒唐破風をつけ「先 入関」(良尚親王筆)の横額を掲げる。
土間は六角のレンガを敷いている。内部には「虎の間」「竹の間」などがある。

虎の間

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重要文化財。伝狩野永徳筆。11面。桃山時代。紙本金地著色。
大玄関内部、虎の間の障屏画で、襖4面にわたってのびる竹や竹林で竹を噛む虎、豹の姿を描く。
虎の胴が長く描かれているが、その当時虎が我が国の絵画のなかに描かれることがなかったので、おそらく想像の絵なのであろう。
虎の獰猛さをあらわし、そのすばしこさを十分描いているのはさすが永徳である。
本図は大玄関とともに京都御所北側の曼殊院旧知から移されたと考えられている。

孔雀の間

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岸駒筆。14面。江戸時代。紙本淡彩。
大玄関内部、孔雀の間の障屏画で、親子の孔雀を南画風に描く。人間の一生を孔雀の姿で表現したものである。
仔の孔雀と、親とのバランスがとてもよくとれているのが、ほほえましい。
岸駒(がんく、1756 ~ 1838)は江戸時代後期の京都の絵師で、はじめ狩野派に学んだが、独自の画風をつくり一派(岸派)をなした。花鳥山水、獣類を得意とした。
ここに善光寺如来をまつっている。

竹の間

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江戸時代。木版画 (唐紙) によるもの。
大玄関内部、竹の間の襖には竹と雲の模様をあしらった壁紙が使われている。
この壁紙は一見描かれた竹のように見えるが、実は版画である。
竹と雲の意匠は当院の名「竹内門跡」にちなむものといわれる。
この版画はわが国最初の版画である。

上之台所

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高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房である。 使われていた当時の献立が今も掲出されている。

丸炉の間

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良尚法親王の御寝所であった「御座の間」の西隣り。
大徳寺の春屋(しゅんおく)宗園による「寒更」の額が掲げられ丸炉(がんろ)をともなう水屋がある。
丸炉とは丸型の炉で。水屋や茶室の次の間に切り、控えの釜を掛けるもの。

茶室 八窓軒

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重要文化財。江戸時代。 柿葺き付下し屋根に覆われた平三畳台目の席。
点前座には色紙窓があり、正面連子窓(れんじまど)の下にさらに下地窓を重ねる。
床には黒塗りの框(かまち)を置き、床天井は高く、床前の平天井を点前座の上まで続け、古田織部・小堀遠州の茶室の作例に認められる特色がある。
八つの窓は仏教の八相成道(はっそうじょうどう)を表現したものである。

小書院

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重要文化財。江戸時代(明暦2年)。
桁行6間、梁間5間の寄棟造。
「黄昏の間」と「富士の間」?の間仕切りの上には格子に菊花を散らした欄間がある。
浮き彫りと透かし彫りとで表菊(おもてぎく)や裏菊(うらぎく)などを表現し、漆により紅白の色付けをしている。

黄昏の間

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小書院のうちの最高の室。7畳。
二畳敷の上段にはその右に火灯窓(かとうまど)をもつ付書院とその左に約10種の寄木で作られた「曼殊院棚」がある。
桂離宮新御殿の「桂棚」などとともに名作として知られ、中央上と右下に物入を取り、両脇に三段の棚という構成で棚板の高さも違っている。
襖絵は狩野探幽筆と伝わる。

富士の間

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小書院の黄昏の間の前室。8畳。
長押しに見られる釘隠しは富士山をかたどった七宝製で、色使いや山にかかる雲の形が一つずつ異なる。

茶室 無窓の席

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重要文化財。江戸時代。
一畳台目(だいめ)の茶室で「くさりの間」とも呼ばれる。
炉は向切(むこうぎり)に切られ、左に洞庫を備える。付床には楓の地板を取り付け、出隅に逆蓮華の擬宝珠(ぎぼし)の小柱を立て壁付柱との間に格狭間透かしのある袖板を入れる。
殿中の茶の「茶立所(ちゃだてどころ)」の伝統に貴族の茶の湯の方式が加わった特異な茶室。

大書院

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重要文化財。江戸時代(明暦2年)。
桁行7間、張間5間、一重、寄棟造の住宅風建築で、屋根は柿葺き。南から東に広い。 縁が折矩(おりかね)に廻り、低い高欄(手摺り)を設ける。 現在は本堂だが、昭和36~37年(1961~62)の半解体修理の際「明暦二年 (1656)」「大書院」の墨書が見出され、もともと書院として建てられたことがわかる。 長押には十弁の菊と短冊形を組み合わせた意匠の釘隠しが施される。

十雪の間

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大書院の南側にある間。10畳。
床左には、上に天袋(てんぶくろ)、下左に地袋(じぶくろ)、下右に火灯窓(かとうまど)を持つ棚が設けられる。
天袋・地袋の襖は周囲が金襴などで飾られ花鳥画が描かれる。

仏間

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大書院の十雪の間の正面奥にある。
もともとこの室は上段の間であったが、明治初年の宸殿取り壊しの際、仏像その他を現在のこの室に移した。
この室には北野天満宮から移されたという十一面観音菩薩像(中央厨子左・平安時代後期)や薬師如来像(厨子中央・鎌倉時代)などの仏像と歴代門主の位牌が安置される。
・良尚法親王像 江戸時代 絹本著色
白い小袖に墨染の衣を羽織り、手には中啓を持ち、腰に脇差を差して坐す姿を描く。
この画像は「四明山」の朱文印と「良尚」の白文院の二顆から、法親王自筆の寿像と推定される。
賛も法親王の自筆で「まよはしとかねてきゝをく 山路かな」と書く。
・智仁親王像 江戸時代 絹本著色
右手に金地に紅葉と青松が描かれた中啓(ちゅうけい)を執り、立ち烏帽を被り座した 姿を描く。

元三大師木像

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重要文化財。鎌倉時代(文永5・1268年)。 ほんとうの名は慈恵大師良源という名僧の木像である。正月三日に逝ったというので元三大師と呼ばれている。
比叡山の中興の祖といわれ、博学の人であり、比叡山延暦寺の堂宇のほとんどを造営したのが元三大師である。
この像の他に各地にもこの大師像が安置されているが、どの像も目がぎょろりとして、筋骨たくましくその衣紋の波も強弱がはっきりしていてる。

宸殿

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宸殿とは歴代天皇・皇室関係者の位牌をまつる門跡寺院では中心となる施設です。
明治5年、京都府立医科大付属病院の前身の京都療病院建設のため、明治政府に上納され、爾来曼殊院では宸殿復興が歴代門主にとっての悲願でありました。
この度願いがかない150年ぶりに復興再建となりました。ご支援ご協力いただいた全国の方々に感謝申し上げます。

菌塚

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菌類学者笠坊武夫氏が昭和56年に建立した。

唐門

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大玄関の右側。唐門というのは唐破風の門ということである。

天満宮

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菅原道真公を祀る祠である。曼殊院内の一番古い建物であり、鎮守堂でもある。

弁天堂

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弁才天が祀られている。

盲亀浮木乃庭
書院庭園

23, 24/24

庭園のご紹介