歴史

千年の時が、
  流れ、続く

延暦年間以来、
培われた文化と伝統を
先へと受け継いでいく。
曼殊院の今までとこれから。

曼殊院門跡は洛北屈指の名刹である。
門跡というのは、皇室一門の方々が住職であったことを意味し、
勅使門の両側の塀に残る五本の白い筋はその格式を今に伝えるものである。

延暦年間(782~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりである。
その後、天暦年間(947~957)是算国師のとき北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、初代別当職に補され、以後明治維新まで900年間曼殊院は北野別当職を歴任した。
天仁年間に北野天満宮管理のため北山に別院を建立。その後御所内公家町に移転し、明暦二年(1656)になり、桂離宮を創始された、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺され、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。
良尚法親王は後陽成天皇の甥、後水尾天皇は従兄弟にあたる。曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されている。曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は「桂離宮の新御殿」や「西本願寺の黒書院」と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされている。
「西本願寺の黒書院」を造営された良怒僧正のもとへは、良尚法親王のご兄弟梅宮内親王が嫁がれている。
「わび」
質素なもの、貧相なもの、不足の中に心の充足を見出そうとする意識

「さび」
静かでさびしさの中に奥深いもの、豊かさを感じること

醜い中にも美しさを 卑しい中にも尊さを
貧しい中にも豊かさを まづい中にも美味しさを 苦しい中にも楽しさを

良尚法親王はここ曼殊院で、「侘びの美・さびの美」の世界に生きられた文化人でした。
また書院の釘隠しや引き手、欄間などが桂離宮と共通した意匠がみられ、同じ系列の工房で作られた物で、これらにより曼殊院は『小さな桂離宮』といわれています。
書院庭園は武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、いわゆる公家好みの庭となっています。司馬遼太郎先生は「街道をゆく」のなかで、「公家文化は豊臣期・桃山期に育成され、江戸初期に開花した。桂離宮と曼殊院は桃山の美意識の成熟と終焉を示している」と書かれています。曼殊院には過去後水尾上皇や霊元天皇、近年では皇太子殿下、秋篠宮両殿下、常陸宮両殿下、平成24年には天皇皇后両陛下に行幸啓いただいております。